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社長の講演シリーズ  <その1>      


2003年7月8日(火)  大阪府立松原中学校  「夏の夜の集い」

テーマ 「夢を持て(求められる子ども像)」から

                                            
講師  氏田 耕吉



●<第1回:はじめに>


 私は氏田耕吉と申します。


本校の近藤先生にご縁をいただいておりまして、先般、突然電話がありまして、一度話してみたらと言われたので、今日はお越しいただく皆さんにご迷惑かな思いながら引き受けさせていただきました。


本当に車屋ですのでなかなか人の前でお話しするチャンスはありません。ましてこういう学校の行事で話をさせていただくというのは実は自分としては非常につらいものがあります。


まして教育やお話のプロの方々もお見えですから、行き届か無いと思いますが、、今日は終わるまではこの部屋から出られませんので、ひとつお付き合いいただきまして、ちょっと話を聞いてみてください。


うまくはしゃべれないかもしれませんが、とりあえずは一生懸命やってみたいと思いますので、よろしくお願いします。


私は、しゃべりだすといつも脱線しますので、お手元にレジュメを作ってお配りさせていただいております。


今日は「夢を持て(求められる子ども像)」ということでテーマをいただいております。


どういうふうにしゃべったらいいかなあと思いまして、久しぶりに本気で考えまして、
3
時間ぐらいずっと考えていました。自分の今までのこととか、自分の生まれ育った環境……。


私は結婚して
31年目、子どもが3人おりまして、長男は29歳で東京で働いております。次男が27歳。これも鹿児島で働いております。最後にドーンと離れて、何を間違うたか女の子ができまして、これがまだ18
才です。今年から大学1年生という娘であります。妻は私と一緒に仕事を手伝ってくれてます。


特別に何があったというわけではないんですけど、あえてこういうお話をさせていただけるということなので、自分の生まれ育ったこととかいろんなことを含めてまとめあげたのですが、たぶん、軽く聞いてもらって、途中で何を言うとんかなと思われるかもしれません。自慢話もあるやろうし、しょうもない話もあると思いますけど、ご容赦いただきたい、と、そういうふうに思います。


 



●<第2回:自己紹介


 最初に私の自己紹介から入ろうと思うのですが、私は昭和
25年の10日生まれ。今現在53
歳になりました。


私の家の仕事は、ここに書いていただきましたが、
有限会社 氏田自動車工作所という会社で、私の父親が創業してくれました。


終戦の年の昭和20年12月に、自転車とかオートバイの修理を始めたそうです。父親が、私が生まれた昭和
25
年に法人登記をしたのが氏田自動車工作所という会社なんです。


今現在、54
期目を迎えてやっております。もう1社、株式会社 ウイズ は販売会社です。現在、ウジタオートサロンと、言う屋号で大阪府下で4拠点、3つのショールームとサービス工場が1カ所でやらせてもらっております。


私がお話をするに至って、たぶん皆さんがご興味があるのは自分のお子さまの話、もしくは生徒さんの話かと思うのですが、僕はある意味、非常に変わった環境に育ちました。


父親は明治
40
年生まれ、母親は大正2年生まれで、どちらももう他界してこの世の中にはいません。そういう意味では僕は一番下の子どもなので非常に年寄りの親に育ちました。


今だから言えることですが、昔はとてもじゃないけど人前では言えなかった話ですけども、実は私の父親も母親も再婚同士でした。どちらも死に別れで、父親が子どもを2人連れてて、母親が子どもを2人連れてて、お互い再婚をしてできたのが私なのです。


もう亡くなったんですが、一番上の兄と僕は
15歳違いますし、私のすぐ上の姉も6つ年が違うんです。親もあえてこの事は口に出さないんです。子ども心にこれは言ってはいけないことなんですよね。誰にもしゃべれない、兄弟にもしゃべれないし、友達になんか絶対言えないことなんです。 


ところが親戚とかがいろいろ言うわけです。「おまえだけが二人の子供だ」とか、「おまえは違う」とか、いろんなことを言うんです。それで、親も僕だけをかわいがるわけにいかないという環境の中で自分が居て、何か本当にへんな意味、心中は複雑でした。


今だから言えるんですけど、実は僕だけが種違い、畑違いでそれこそ兄2人、姉2人の5人兄弟の末っ子なんです。そういう環境なんで、非常に両親とも僕に気を遣ってくれたと思います。


この氏田自動車工作所の創業者で亡くなった父親というのは、氏田寅吉といいまして、私は耕吉なんです。
 私の兄は洋吉というんです。 そして実は私の長男は伸吉、次男は裕吉、娘は吉子(キチコ)。


、、、これはうそですけどね(笑)、ちょっとこの辺で笑いをとっとかんと、緊張して……。すいません、本当は娘は朋子といいます。


何しろですね、父親は一切勉強しろとは言わないんです。職人さん気質で、車を直したり、修理をするということに対してすごいプライドを持った人でした。
 小さい時から「男は手に職を付けないかん」とそういうふうに言うんですよ。 
手に職さえ付けたら食うには困らへんと。 とりあえず自分の仕事がうちの父親にとっては最高なんですね。


その上、「おまえは特別や」とか、「みんなと一緒じゃない」とかいう表現をしょっちゅうするんですね。自分は何か訳が分らないけど、子供の頃からそういうふうに言われてきたら、心底そう思うんですね.


これが言う所の「アンカーリング」なんでしょうね。


この事は後程ゆっくりお話します。


 



●<第3回:仕事の意味


 僕が生まれた昭和
25年、終戦後5年たったくらいですけれども、そこから昭和30
年代に向って、いわゆる自動車のモータリゼーションが起こりつつある時ですけれども、非常に車はよく故障しました。


とにかくよく傷む。 僕が小さい時というのはまだ木をくべて走る自動車、木炭車なんていうのが有りました。 自動車の中は今だったらプラスチックや合成の内張なんですけども、実は当時はそれが木なんです。 で、「車大工さん」というのが居られてね、車の内張を大工さんが木を切ってベニヤ板で張るような、そんな時代だったんです。


今も会社は住吉区帝犹海離船鵐船鹽甜屬鳳茲辰董⊂さな古い工場で当時と一緒の所なんですけど、そこがもともと父親の創業の地です。 そこの2階で僕は生まれ育っているわけです。 とにかく当時は自動車がよく故障しましてね、今日の皆さんはお若いからそういうことをご経験ないと思うんですけど、僕が免許を取った頃なんていうのは、道路端でエンコしてる車とかが一杯あるんですよ。 車が動かなくなってボンネットを開いて、とめてるとかいう車がたくさんあったわけです。


僕はそういう時代の修理工場の息子なんですね。 夜とか昼にかかわらず、車はしょっちゅうエンコするんですよ。 エンジンなんかキーを回したら繋るんじゃなくて、キーをオンにしておいて車の前でスターテイングハンドルを回して、エンジンをかけるような時代ですから、、、とにかく、よく故障するんですね。


故障したら、職人さんがみんな順番で出張に行くわけです。 私が学校から帰ってきて、晩になっても出張なんです。 とにかくよく車が壊れるんで、夜中の出張もよくありました。 夜になって私が家に居る時、電話がかかってくる。 夜何時にかかわらず、お客さんからの電話が入ったらうちの父親がパッと電話取って、車が壊れた、エンコっていうのを聞きつけるわけですね。


どこそこでどんな状態とか。 僕は工場の2階に住んでいましたので、聞いていてためらわずすぐに下りていって、まず父親が持っていきそうな道具箱を出してきて用意するんです。 小学生ぐらいですからもう連れていってほしくてたまらないんですね。 それで父親が出張の準備して下りてきて、「なんや、行くんか」、「うん、乗してって」言って、車に乗せてもらって、現場で車のエンコしたのを直しているのをずっと横で見てるんですね。


そこでいつも父親は車が直ったら、帰りの車の中ですごい自慢をするんですよ。


「直ったやろー、どんな偉い社長でも車はよう直せへん、壊れたらなあ、やっぱり俺が直さなあかんねん」と。 「ええやろー、こんなんやっぱり手に職付けとかなあかん」って言うわけですね。 それでその後で必ず言うんです。「あんだけ喜んでくれて、おまけにお金までくれんねんで」と。 「こんな仕事はないでー、ええやろー」言うて。もうこれをずーっと言うんですね。


小さい時からずーっと聞かされて訳ですよ。一緒にお風呂に入っても、そんな話をするわけですね。 とりあえずおやじはすごいとか、人のできへんことをやったらすごい人や。 また、直ったら相手を喜ばせれると。喜んだらほっといてもお金をくれはるとか、そんなことをずーっと聞いてきてるわけなんですね。


ここからはちょっとだけ自慢話ですけど、住吉区ではたぶんうちが1、2で古い修理工場です。阿倍野、住吉でも1、2やと思いますけど。特に父親はそういう意味では技術のほうでは自信があったと思うんですね。色々な人が修理の相談に来たり習いに来たりしていました。車を直すという自信も結構あったと思うんですよね。


 



●<第4回:心臓弁膜症>


 父は事業力の旺盛な人で、いくつもいろんな仕事を展開してました。 修理工場をやりながらガソリンスタンドをやったり、塗装工場をやったり、出入りの部品屋さんが困ってきたら応援したり、取引先の運送屋さんがつぶれかけたらそこを引き受けたりしてました。 


私には兄が2人おりまして一番上の兄は、亡くなったんですけど、塗装関係に進みました。 二番目のほうは最初、ガソリンスタンドをやるということだったんですけど、本業の自動車修理の会社を継ぎました。私は年も一番離れてるし、どの仕事をやるのかなあ?ぐらいに自分で思ってました。


ところが病気をして事情が変わってくるんですね。 私が小学校4年生の時に水中自転車とか言って、水の中を自転車をこいで走っていく「遊び」が流行ってました。 それは結構はやりでして、私は水中自転車で乗るのが一番うまいんですよ。 


ひっくり返らないように水の中を走って行くんですね。『その時』は足をけがしてるのに近所の池で水中自転車を楽しんでました。 左足だったか、怪我してるのにやってて、足からばい菌が入りまして、ものすごい発熱が続いたんです。 


1週間か10日くらいして、熱があんまりひどかったので小児リウマチだとわかりました。その小児リウマチで熱が下らず、高熱がずっと続いたもんですから、心臓にきちゃったんですね。 今はちょっと違う病名らしいんですけど、当時は心臓弁膜症と言われてました。 

それからはいきなり「運動は一切だめで、体育は見学のみ」学校へ行くのも送り迎えを親や姉がしてくれた時期がありました。 それから、なんか急に自分の世界が変わるんですよね。 うちの母親もその事をすごく気にして、「無理せんでいい」って、ものすごく甘やかしてくれるようになりました。 ところが、自分はそういう父親にそういう育て方をされてたものですから、食い違ってしかたがないんですね。


 



●<第5回:小学生のアルバイト>


 その病気がちょっと落ち着いて、1年以上たった小学校5年生の時の夏休みに、初めて私にも工場での修理のアルバイトの許可が出ました。 それはもう、毎日めっちゃくちゃ楽しくてしかたがなかったです。


朝は親と一緒に1階へ下りて手伝っていました。 当時は職人さんたちが7〜8人くらいかな、全員で10人ぐらいで工場をやってました。職人さん達が私に「何々取って来い」、で道具を取ってきて仕事を手伝うんです。


それと、毎朝毎晩、車の引き取りや納車に全員で一斉に行くんです。 小さい目のバスに皆が乘りこんで、いろいろな会社へ行って引きあげてきて修理して、またその日できあがったものを晩になったら納めに行くんです。 ところがたくさん得意先があるから、お客さんの場所っていうのをみんながよく分かってないわけなんですね。 


そこで私は車に乗せて欲しいんで、子どもながらに、手帳を手に入れて、1回行った場所は必ず自分で地図を書いておくんです。職人さんよりも自分のほうがお客さんの場所は書いて有るんで分かってるんです。 


朝晩の打ち合わせで「どこそこの何々さんへ取りに行くけど、誰か分かるかあ」と言った時に、私は「はい!」ですね。「へえ、耕ちゃん分かんの、ほな、連れてったるわ」ということになって、必ず連れて行ってくれる。とにかくもう、連れて行ってほしくてたまらないので考えつくんですね。 


納車引取りだけでなく、出張修理でも横で見てても、なんか分からないんだけど、一生懸命見てたんですね。 楽しかったです。 父親は自分の仕事に子供の私がそういう興味を持つことを喜んでくれたんですが、病気のこともあるので、母親がものすごい気にしだしました。 


もうこれ以上仕事のアルバイトをさせるのはダメと、すごくコントロールされました。 それが小学校の5年生の時なんです。 なんかそれでも親が、「ああ、おまえは違うなあ」とか「さすがおまえは俺の息子や、やっぱりできるな」とか言ってくれるんです。 で、自分ながら、俺は違うんやとか、俺はできるんやとか、勝手にそういうことを思ってました。 


自信過剰と言うか、これもやっぱりアンカリングだったんですね。


 



●<第6回:中学時代の反抗期>


 しかしその後はお決まりの反抗期です。 中学生になってからは、父親に逆らったり、けんかしたり、先生に逆らったりしてました。


私たちの時代は団塊の世代のちょうど最後の方なんです。 大阪市立の住吉中学校を出てるんですが、当時の中学校の1学年は750人もいました。 住吉中学はなかなかの有名校で、その成績上位の100人のうち半分ぐらいは越境入学なんですね。 


750人居る上に、6時間授業がビッチリあって、それ終わってから補講がまだ2時間あるんですよ。 だから中学の3年になったら8時間授業なんですね。 2年まではいいんですけどね、3年になったら、こちらの教頭先生みたいには優しくない、当時の教頭先生が中学3年生を集めていきなり、「睡眠時間は5時間から6時間。それ以上寝てはいけない。 いくら寝ても無駄や」とか言ってましたね。


とにかく「勉強しなさい」とか、言うのですよ。学校でホームルームの授業は「自習時間にします」とか言って予習とか復習の時間になってました。 ほんまにすごい学校だったんですよ。  


僕は親から勉強しろなんて言われたこともないし、面白く中学1、2年まで来てましたのに、いきなり3年になって何んで?と言う感じでした。 3年の担任の保田信冶先生は当時はまだ新任で、「僕は初めて3年生を持つけど、君らももう3年生になったから、とりあえずホームルームは無しにする。 今年1年間ホームルームは無しで、その時間は予習時間、自由時間にして、質問は全部自分が受けます。」と言い出されたんです。

いろいろ納得できない事なので、まず一番にホームルームを戻してもらう事にしました。 私はいきなり先生に、「それはちょっとおかしいんじゃないですか、それは教育の何とか(?)に合ってない」とか適当なことを言ってたんでしょうね、きっと。 そしたら、当然生徒は皆で全員賛成しますよね。「そや、そや、そんなあかん、あかん。もうそら、ホームルームはホームルームとしてやるべきや。先生、やっぱり民主主義は多数決ですよ」とか言って先生に反対するんです。 


変なところで私はそういうことをやるんですね。そんなことをして来たんで、先生からもたぶん恨みをかってたと思うんです。 病弱だった割りには体は大きくて、声も大きく、特徴が有ったので、よく目立ちました。 本当に学生時代はいろいろなことがありました。

 



●<第7回:私の父親>


 さっき言ってた6時間授業の後の2時間は補講で、お金を払うんのです。 お金を払って全員が授業を受けるんです。 ただ、たまには先生がいない時があるんです。 


その日は先生がいないのが分かってて、友達を2人誘って補講をサボったんです。 「ばれへん」と思ってね。 住吉中学校を出て、駅のそばに 「帝塚山古墳」 と言うのがあります。古墳は史跡になっていて立ち入り禁止なんです。 


ただそこには誰もいないので、その塀を乗り越えて入って遊べます。拾った木やダンボールをそりみたいにして乘って滑走路みたいに上から滑って遊びました。 2時間ほど遊んで家に帰ったらちょうど「ばれへん」と思って、ずーっと遊んでて、ちょうどみんなが補講から帰るころよりちょっと遅めに古墳を出たんです。 調子にのってたんでしょうね、 


3人で帰ろうとして、駅の踏切が下りてるのに渡った所を駅に居た保田先生に見つかりました。 「わ、やばい」と思って隠れて、絶対「ばれてへん」はずだったんです。 先生も全然知らないようだし、怒るそぶりもなかったんでラッキーやったんです。 


ところが次の日の朝、学校に行ったら、いきなり3人が職員室に呼び出しで、「君ら3人、心に疾しいところあるやろう」と言われました。 ーー「ばれてたん」です。−− 「とりあえず今は3年生の大事な時期やから、全員お父さんに来てもらえ。 お母さんではあかん。 お父さんに来てもろうてくれ。それがあかんかったら、私が行ってもいい」と言われましてね……。


どう言おうかなあ、うちの親父なんか、勉強しろなんて言う人でないし、どないしようかなあと思って、おそるおそる親父に言いました。

「なんか学校へ来てくれって。お父さんしかあかん言うてんねん」と言ったら、即、「分かった」でした。

次の日に私の父親が学校に行くんですけど、いつも作業着しか着ていない人だけど、わりとおしゃれで、遊びに行く時だけはおしゃれな服を着るんですよ。 放課後隠れて覗いて、どんな格好して来るのかなと思ってたら、、、もう忘れもしませんね。 ちょっと長いめのコートを着てたと思います。 


何んでコートを着てくんのかな?です。 そんな格好してさっそうと職員室に入っていきました。  「うわあー、またうちのおやじ、絶対何かやりかしよるなあ?」えらいこっちゃなあと思ってました。 ところが、あまり時間もかからない内に、すーっと出て帰って行くんですよね。 


すると、学内放送がかかって先生から「氏田君、職員室へ来なさい」と呼び出しです。 職員室へ行くと、「君のお父さんと話した。家帰って聞いたらいいけど、まあ、そういうことやから、お父さんによう聞いとけ」とか言われました。 


それ以上は何にも言わないしね、何でかなあと思いながらおそるおそる家へ帰りました。夜、仕事終わって上がって来たおやじが、

「ちょっとこっち来てみい、おまえ、学校で補講出んと遊んでたりしたらしいなあ!」。

「ごめん」

「おまえ、勉強好きちゃうんか」

「うん、あんまり好きちゃうねん」

「ほんならおまえ、もう働け」

「え?」、、、、、

「おまえ、もう中学で学校やめて働いたらええ。勉強も好きでないやろうし、たいした成績でもないから、公立か私立かスレスレらしいから、金もかかるし。お兄ちゃんたちは勉強したいと言ってたから私立でも金出して行かしたんや。 けどおまえは、勉強もいやらしいから、もう働け。 先生にそない言うといたから」

「え?」、、、、、て。今でもその時のことを思い出すんです。


「うわあ、俺もうあかんわ。中学出たらもう働かなあかんわ」と思って、もう涙出そうでね。 私のおやじは酒も飲まない堅物で、明治40年生まれでしょう。 絶対言うことは聞いてくれませんからね。 うちの母親なんかでも、絶対口答えするような人じゃないんで、もうどないしようかなあ思った事をね。


それで次の日、先生に相談に行ったんです。

「先生、実は僕、働け言われてるんですわ。」

「おまえのお父さんは、もう、ほんま、たまらんなあ。おまえ、どないすんねん?」

「どないしたらよろしやろ」

「これやったら余程でない限り、高校へは行かれへんのちゃうかぁ」


当時のことですから、中学しか行かない人も何人もおりましたからね。 だけど、私はね、当時の成績が750人中400番前後。 良い時で300番ぐらい。 当時はできる生徒は基本的に公立高校に行くんですよ。それでもうちょっとだと私立、もしくは上のついた私立に行くような時代だったんですが私も成績では行けない事はないんです。


先生は「まあ、とりあえず成績上げなあかんわなあ」と言ってました。 それで僕は母親に言ってオヤジに頼んでもらう事にしました。「もう一生懸命勉強する言うてるし、なんとか高校だけ行かせたってください。上の兄弟と同じように高校へ行かしてやってください。」、


母親が頼んでくれて、僕も横でお願いしますと頼みこみました。 そこで何とか落ち着いたんですけれど、でもあれは何かあったら、本当にそのまま働いてたかもしれません。 そこで、「こらあかんなあ」と思うて、滅茶苦茶に勉強しました。 


たまたま昔から、基礎の要る算数と英語だけは好きだったんで、助かりました。 ほかが全然ダメだったんですが、記憶だけなんで、いろいろやりました。 寝るところの枕元に化学方程式を書いて貼っとくんですよ。 夜寝る時に必ず天井を見ますよね。 毎日化学方程式を見て寝てると覚えてしまう。 


それとか、テープレコーダみたいなでっかいリールのが家にあったんですよ。 それで英語の文章とかを吹き込んどいて、寝てるときにもそれを聞いたりしてると覚えれたんです。 色々と自分で工夫してると、ポンポンと成績が上がりだして、すぐ200番くらいまできて、100番くらいまできました。


なんかその辺で自分も「こら行ける!」といつもの自信過剰になるんですね。 その時の想い出の担任が保田信冶先生とおっしゃるんです。 高校を出てからこの仕事についた頃、連絡を頂きました。 「車、修理するか?」って、、、出来の悪かった生徒ほどいつまでの気になられるんでしょうね。


今、堺の東雲東町にお住まいで、実は今でもわが社のお得意様でお付き合いがあるんです。先般、私が幹事で先生の「定年慰労会」を盛大にしました。

 



●<第8回:自由闊達な阪南高校時代


 その時のことでも両親は全然勉強しろとは言いませんでした。 しかし自分としては、とりあえずはそこそこの学校に行こうと思って、絶対通る、かつその当時一番自由であるという阪南高校に行きました。 今は学校も結構いろいろ有るようですが、そこの8期生で入学しました。 


肝心の成績なんですが、入った時は学年で4番だったそうです。 高校に行く時に中学の先生に、「おまえ、高校をなめたらあかんで。 ちょっと勉強して成績が上がるのは中学生まで。 なんぼ英語や数学得意や言うても高校になったら基本的にやれへんかったら、あかんで」と、やんちゃやったんで、3人もの先生に言われましたね。


もう調子に乗ってたのが分かってるからでしょうね。 でも、「おれは出来んねん。やっぱ、おれはやったら出来る」と思い続けてました。 そしたらいきなり1学期の終わりに、クラスでドベから4番目になりまして、中学校の方の保田先生からは呼び出しきましたね。 


「おまえ、なんで勉強せえへんねん」て。 優良な住吉中学校に比べたら、阪南高校はある意味、非常に荒れた高校でした。 と、言うより、それが、当時の普通の学校だったんですね。 休み時間になったらみんなが「行こうかあ」と言って、奥のロッカーで、いきなりたばこパアーッとを吸い始めます。 びっくりしましてね。 住吉中学校ではそんなのは誰もおりませんでしたから、「うわあー、なんちゅう高校へ入ってもうたやろ」と思いました。 


それで皆はたばこを吸って、ロッカーの奥へ吸殻を放り込むんです。 そしたら1度、ロッカーから煙が出てきましてね、その時の先生にみんなでえらい怒られました。 「誰だ、こんな所でたばこ吸うのは。何を考えてるんだ」とか言われました。 何か、そういう場面になると私はだめなんですね。 「先生、何んでたばこ吸うたらあきまへんねん。 先生、吸うてますやん。大人が吸うてええんで、なんで子供はあきまへんの。そんなんおかしい、納得でけへん。」とか言ってしまうんです。 


もうそうなると、前後の見境なく、そこでくってかかるんですよ。 すると、先生が「もうええ。おまえ、あとで職員室来い」。またやってしまいました、、、、。それで先生が「おまえがたばこを吸うて無いのは分かっとる。 おまえは性格上そうやろう。 それを何でおまえが前面になってやるのや。 吸うてた連中はみんなそやそやて言い出すやろ。それがあかんのや」と言われます。


変な性格でした。うちの高校は違う意味では非常に活発な高校でした。何しろ校長先生が朝礼で話し出すと、上級生は校長先生に向ってヤジを飛ばすぐらいです。 「先生それは何か違う」とか、話に対していろいろと、ヤジを飛ばします。 国会みたいなものです。 すごいんですよ。 先生と生徒が真剣に話し合うんです。 そんな事から、うちの高校からは大阪市立大学とか、あの辺のレベルの大学校に行った連中で、当時の流行の全共闘や全学連とかの連中も居ました。


そんな先輩がたくさん居ましたね。 だからか、実は私の高校3年の時、卒業式は、当日学校が彼らに封鎖で出来ませんでした。 高校での卒業式粉砕の全国第一号です。 東京大学の入試はなかった年です。 だから僕は行けなかった(笑)。、、、、、それはないか。


(笑)でも、ここからが暗転した私の話です。 高校3年の夏休みに私の父親が亡くなっちゃうんですよ。昭和43年の8月10日です。 春休みぐらいから調子が悪くなってきて、最後、胃ガンで8月に亡くなってしまいます。 今までは超ワンマンの父親でしたし、全て、何でもできる人でした。先ほども言いましたけど、仕事での修理のこと、会社経営のこと、そして家族の統制、いわゆる付き合い、すべてベストなぐらい超ワンマンなおやじでしたから、、、、、。


本当にそれで私自身の人生がガラッと変わるんですね。それが高校3年の夏休みでした。


 



●<第9回:社会人


 私には上に兄がおりますから、心臓病の事も有って体もちょっと弱かったし、自分は普通に大学行って就職しようと思ってたんです。 でもこれでちょっと段取りが狂いました。


そこで2部の大学に行くことにさせてもらって、関西大学の社会学部社会学科(新聞学科)に入りました。私は中学生時代、新聞部だったんです。 そんなマスコミの世界が好きだったし、体の事もあって行きたかったんです。


親父が死んだあと、会社の跡継いだのがすぐ上の次男坊でした。 私は高校を出てからは会社へ手伝いに入って、夜、学校へ行かせてもらってるという状況だったんです。 余談ですけど、当時、月給が2万4,000円でした。 今でも覚えてますが、保険料を引いたら2万2,000円何がしなんです。


自分で車を買いたくて、そこから毎月2万円ずつ貯めてました。 その何千円かで1ヶ月やるんです。 車が欲しくててたまらなかったんで、絶対に遊びに行かないように、お金を使わないようにしました。 本当にケチに徹してました。


20万円貯まったところで念願の自分の車を買いました。 ところで仕事の方は不思議なもので、やっぱりそれだけやってきた、おやじさんが死ぬと、一気にだめになりますね。 あれはもう、びっくりしますね。まず、いいお客さんが来なくなる。 仕事でミスが出る。 トラブルが起きると解決できない。 お金のやりくりがつけられない。 そんな連続でした。 


兄も9つ上で、私が18才の時に27才ですから、いきなり「社長」と、いうことで、本当に苦労してました。おやじからは修理の事しか習ってなかったし、全ておやじがやってましたから、兄貴も困ってました。 先ほども言いましたように、勉強しろなんて言われてませんでしたから、経営は二人ともお手上げでした。 そろばん学校もすぐに止めてましたから、まず私はそろばんが置けない。 当時は小さな電卓なんて出て無かったです。 お金を計算しようと思ってそろばんを置いても合わないんです。 


手が大きいのですぐ引っかけて、ご破算で、わからなくなります。日本橋に、五階百貨店って言う中古品屋か、が有りました.。 知ってられますか?電気屋さんの街にね、中古の電気製品ばっかり売ってるところが有るんです。 仕方ないから、そこでレジで使ってるような「レジスター」って言う、数字を入れて「バーン」と押したら、ガチャガチャと合計が出てくる、のを買ってきましてね。 それをもって歩いてて、配線をコンセントに差し込んで、計算してしてました。 そうしないと、私は計算出来ませんでした。 そろばん学校さえ辞めてなかったら、と情けない限りです。


だけど、兄貴は仕事できるが私は何もできません。 事務もしないと、だめでしたからね。 その上、大学へ行かしてもらわないといけないのでとにかくやってました。 もう、とんでもない毎日でした。 ところが、そうこうしているうちに、会社はお金が詰まってくるんですね。


兄貴は自分が銀行へお金を借りに行ったり謝りに行ったりするのがいやだから、私に行ってこいと言うんです。 印鑑も全部渡してくれるんです。 でも、そんなの、社会人1年の18才には無理ですよね。 だけど、仕方が無いんで社長の兄貴のふりして行くんです。 相手は結構、分からないんですね。 毎月手形を書き換えに行かないといけないんです。


商売してる方は分かると思うんですが、これが大変なんですよ。「お宅は、いつ元金を返すんですか?」って、銀行で言われるんですよ。「すみません、とりあえず金利だけで」とか、こう教えられてるんで言うわけですけど、「手形の裏にハンを押せ」とか言われるんです。兄貴は信用して18才の私に印鑑を全部預けてますからね。 で、行って全然知識の無い私が手形や小切手を書くわけです。 普通は簿記を勉強してるか、事務を習ってないとわかりません。 小切手があってね、その小切手のところに、¥マークを入れて、金額を書く欄があるんです。 銀行でここへ数字を書けって言われるんです。 


例えば135000円だったら、そこへまず「¥」って書いて算用数字で「135000ー」って書いたら良いと思うんです。 ところが、銀行の人が「小切手にこんな書き方はないでしょ。 漢字で書きなさい」と言うんです。 漢字で書くって言ったら、皆さん分かります? そこでまず、「金」って書く。 「¥」じゃないんです。


そして、135000円だから、十三(ジュウサン)万(まん)、五千円、最後に也を付けるは何故か知ってました。 「金十三万五千円也」です。 そしたら銀行が「これはだめでしょう!」ですわ。「何でですねん!」すると、「もうええわ!」ですよ。 今度は3枚目の小切手帳を持って行って、後ろで「ガチャ」ってチェックライターで打って来るんです。 「それやったらおまえ、最初から打て!」と思いましたね。 この小切手帳ね、紙代を取るんですよ。 それも、きっちり3枚分ね。


悔しくて家へ帰って母親に言ったら、「あんた、学校はそんなつもりで出てへんもんなあ」って言われて、新聞のチラシの裏が真っ白けの分をいつもメモに置いてあるので、それを出してきてね。 「1」 は「壱」、こう書く。 次、「2」は「弐」って書く。 「3」は「参」。 こうやってね、上の行に「壱」から「拾」までずっと書いてくれましてね。


で、この上に書いてくれた字の下に真似て書いて、「練習しい」ってね。 今でもその時のことが絶対忘れられへんのは、大正2年生まれの母親は尋常小学校しか出てないんです。 その学校へ行って無い人に習った事なんです。 私は今でも小切手帳をはずして持っていって、どこでも数字は書けます。 それを書くたんびに、自分の母親を思い出すんです。 「ああ、おふくろに習ったなあ」って。 今、私はそれをよく自分の社員の人たちに教えます。 「昔なあ、こんな事が有って、これはおふくろに習うたんや!」って。そんな思い出があります。

 



●<第10回:十二指腸潰瘍


 実をいうと、その会社は結局2年でやっていけなくなりました。

昭和43年に父親が亡くなって、44年から私も高校を卒業して入ったんですけど、結局2年間でした。 資金繰りも厳しくなってきてました。

『トイチ』、て分かります?十日で一割の金利が付く事です。 最後のころ、一番しんどかった頃にね、『トイチ』に近いようなお金にも手を出しました。 『ナニワ金融道』、ちょっと、そこまでの人じゃないけど、10日たったら1割ほど金利が付くような、高利のお金です。 

そして、それもね、今考えたらすごい話ですけど、先に金利を引かれるんです。 例えば10万円貸してほしいって言います。 1ヶ月間10万円貸してほしいと、言ったら、いきなり最初から7万円しか貸してくれへんのです。 

要するに10日で1割ずつやから、30日で3割。 だから7万円しか貸してくれないんです。 だけど10万円の借用書を書かせるんです。 それでも結局、もう銀行もダメ、自分でもどうしようもないから、もうしかたないんです。

そのかわり、印鑑だけ持っていって、サインと印鑑を押すだけ、担保も保証人も無しです。 母親に言っても、「もうしゃあないやん、土地が売れるまでのつなぎの資金や」とか言うんでね、本当にすごかったですね。

その当時、今本社の有る帝犹海両貊蠅醗磴所に100坪の工場とマンションが建ってる南住吉工場が有りました。 その建築費も銀行の借入金でやってましたので、それの返済もできなくなってきて、昭和46年、いったんそこの工場を閉めることにしました。

 「これ以上やると他人様に迷惑をかけるから」と周りを説得してその工場を売却しました。 兄貴は家族も有るし、他へ働きに行く事にして、その売却したお金で銀行に返済したんです。 当時はいわゆる出入り業者さんとか仕入れ先もたくさんありましたから、工場が売れたら仕入のお金、(いわゆる買掛金)は全部返済するからしばらく待って欲しい、と、その方々に1件1件お願いに行きました。

皆さんは、確かに、「先代の社長にはお世話になった。」と言ってくれてね、やっぱりすごかったですね。人の情というか……。やっぱりものすごいですね。

でもそれがなかなか工場が売れないと許してくれなくなってきました。いろんなことも言われたし、いろんな目にも遭つて、もうほんとに、たまらんかったです。

それで、私ね20才で十二指腸潰瘍になりましたから。胃が痛くなってきてね。工場の売却、返済の決着が終わったくらいにちょうどキリキリ胃が痛くなりだして、なんかお腹がおかしくなって下痢になって、病院に行ったら十二指腸潰瘍だって言われました。 

当時は『十二指腸潰瘍』って、1日1本ずつ毎日注射を打つんです。 10本打ったらバリウム飲んでレントゲン。 それで、まだあかんと、また10本打つ。 また、レントゲン。 つごう、30本打ちました。 30本打ってやっと潰瘍が治まりました。 その時にお世話になった阪南町の小川先生に、「君な、19や20で十二指腸潰瘍になる奴はおらんぞ」と言われました。

さらに先生は、「君、こんな病気になるなんて大変な事やで、。一生働かな いかんのやから、まずこの病気が治ったのを機会にお酒を飲めるようになりなさい」と言われました。

実は我が家ではおやじもおふくろも含めて兄弟、誰ひとりお酒は飲みません。ところがそんな事情で「お酒を飲んでストレスを発散したら?」って言われて私は飲み出す様になりました。今も酒は弱いですけど大好きです。

 

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