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社長の講演シリーズ  <その2>
      



「第13回 天衣無縫の会」 より

人生万事、塞翁(さいおう)が馬」

                                            
講師  氏田 耕吉



●<第1回:はじめに>


司会者:本日のご講演をお願いする講師の先生をご紹介させていただきたいと思います。ウジタオートサロンという輸入車販売会社の社長、氏田耕吉様でいらっしゃいます。出てきていただきますと、まずその笑顔の素晴らしさに皆様お気付きになっていただけると思います。

私の存じ上げている方、「天衣無縫」に関わられる方は皆さん笑顔が素晴らしい方ばかりなのですが、氏田様の心の底から沸き上がるような笑顔を見ていただければ、「すごい」の一言だ、という感じがいたします。 私も氏田社長のように湧き出るような笑顔というものをいつも心がけたいな、と思っております。

「天衣無縫」の目指すものとしては、人間形成、それから地域浄化、政治刷新と3つあるわけなのですが、氏田様は今申し上げました通り、笑顔の素晴らしい、即ち人物ができあがっている、というふうに思います。

また、常々帝塚山地域の地域活動として、「帝塚山まつり」とか「帝塚山カップ」「帝塚山音楽祭」等、意欲的な活動もなさっています。

昨年の中田宏衆議院議員(注:現在横浜市長)の出版記念パーティもこの場所で行われたのですが、その時にも鋭い質問を交えて司会をされる等、政治にも物申していらっしゃいます。

正に「天衣無縫」の今年最初の講演の先生としては打ってつけ、と思っております。必ず、元気な、心の躍動というものを感じていただけると思います。 長いご紹介になりましたけれども、早速氏田社長にお話をお願いしたいと思います。では氏田社長、よろしくお願いいたします。


氏田:おはようございます。 過分なご紹介をいただきましてありがとうございます。今日は久しぶりに長いお話をさせていただけるということで、非常に緊張しております。

小学生ぐらいの時に学芸会で舞台の上に立ったことがあるのですが、立ったときに両脚がガクガクと震えることがありました。 今でも覚えているのですが、本当にドキドキと緊張していました。

また私がそんな小学校5年生ぐらいのときに同じクラスにすごく気の合わない女の子がおりました。今はもう名前も何も覚えていないのですが、その子がいつもクラス会などで胸を張ってすごく自信を持ってしゃべるのが、どうも気に入らないんですね。

何とかしゃべり返してやりたいな、と思って、「ドキドキ」しながらぱっと手を挙げて、勇気を出して、クラス会で話をするようになったことがあるのです。それがきっかけで、ドキドキしていても「はい」と手を挙げて、意見を言ったりしました。それが今のようになれたんかな?と、印象に残っています。

今日この講演をさせていただくというのは、以前からお話をいただいていたのですが、「天衣無縫」では素晴らしい講師の先生が続々とお話しされている中で、私のような者がお話しをするというのは非常に場違いな気もいたしまして、ずっとご辞退申し上げていました。

しかし、せっかくのチャンスと思いまして引き受けさせてもらったのですが、久しぶりに緊張しました。
昨日も簡単なテーマ原稿を作っていたのですが、書いているうちに大学ノートに4枚ほどにもなってしまいました。さらにずっと細かく書いていたらだんだん分からなくなってきて、夜眠れないし、大変でした。

12時になるけど明日の原稿ができていない、ここまできたら早く寝なければ仕方ない。
睡眠不足のほうが大変だろうな、と思って、寝ようと思ったのですが興奮していて眠れない。それでお酒を飲みました。 1杯だけで良かったものをちょっと酔いが足らない、ともう1杯…。

「もう、ええか」と思って、そのうちテレビを見始めまして、これを見て、寝て、早く起きようと思ったら、今朝は何と4時頃目が覚めました。今、起きてまた睡眠不足になってしまってはいけないな、と、またそのまま寝てしまったのです。気が付いたらいつもどうりの時間でした。

こう喋りだして、いつも思うんですが、実はすごく緊張しています。皆さんは気づかないかもしれませんが、緊張しています。しかし私だけではなく人前で話すのはきっとみんな緊張するものだと思うのです。ところが、その緊張していて、舞台に上がってお話しをしたときに、脚が震えるとか、心臓が高鳴るとか、顔が赤くなるのを通り超える時というのがものすごく快感なんですね。

その時の快感というのが1番気持ちが良くて、脚がガタガタと震えて、そして話しているうちにだんだん自分の気持ちが高ぶってくるんです。

そういう経験を1回すると、例えば今日は30〜40人ということですが、それを乗り超えると、そのぐらいの人数だったら自分はできる、と思うわけです。500人でも1000人でも同じです。

これはケーススタディというか、「成功の反復」と言うものですね。そういう場面に遭遇し、経験したら、人間というのは何でも、どんどんできるようになってくるものだな、と思います。


 



●<第2回:成功の反復


「サンゆ倶楽部」と言う異業種交流会がありまして、私が社会に出て初めて入った、仕事とは全然関係のない会です。その会の目的は「夢」と「ゆとり」と「ユーモア」だけを追求する会です。もう会は30年を越えているらしいのですが、その会に昭和52年から入れていただいています。

その会で、月1回「サンユ塾」というのがありました。いろんな教科書をくれまして、それを勉強していきます。今はちょっと形が変わりましたが私が入った当時はそんな事で進めてました。その中でいただいた本で、何の本だったか題名は忘れてしまいましたが、「成功の反復」という項がありました。

人間というのは、何か自分で苦しいことにトライして、その苦しいこと、難しいことができたら、それ以後はそこまでは必ずできる、と自分で思えるようになるらしい。そして、その次というようにまたやっていける。 人間というものは「成功の反復」の繰り返しであるという。 そしてその成功を少しづつ大きくしていく…そういうようなことが書いてありました。

よく分からなかったのですが、「ああ、これか」と思いました。子供の時に、例えば舞台のような所に立ったときガタガタ震えるのが、うまくいったら、その次は「そこらぐらいの事やったらできるんと違うかな」と思うようになる。

これはすべからく、仕事でも一緒かな、と思うのです。 自分にちょっとした難問題が降り掛かって来たときに、とりあえず頑張ってトライする。 トライしてそれができたら、次は、そのレベルまでは必ずできる、と思うんですね。  そうすると自信が持てる。何とか一生懸命やったら、できるのではないか?そうするとその次をやっていけるという自信が出来てくる。

そういうような事を、知らずにやっていて、後からある本を読んで、「あ、そうか。こういうのが『成功の反復』と言うんやな」とわかりました。 皆さんも、それから私ももちろんですが、何か嫌なこととか、厳しいこととか辛いことがたくさんあると思うのです。

それをがんばると、今の力が100だとして、120いったら、苦しいですけどそれができる。次はその120が100パーセントになるような気がします。そういう非常に苦しい、突き当たる壁みたいなものがよくあるような気がします。

ついでなのでここでお話しさせていただきます。人生でも仕事でも、「どうしたら良いか分からない」ということ、例えばどっちを選んでも答がどうなるか分からないということで迷ったり、真剣に悩んで考える事が有ると思います。

先ほどは私共の仕事を輸入車の販売会社と言っていただきましたが、私はもともと修理工(メカニック)なんです。今は確かに輸入車販売がメインなんですが、メカニックとしての工場経営から中古車センターをするか、しないか、販売を自分がやろうかというので、すごく悩んだことがありました。

「サンゆ倶楽部」というところでは、「経龍会」という京都の天龍寺で坐禅をする会もあって、以前は年に10回ほど行かせていただいてました。 そんな悩み多い時、ちょうど天龍寺に坐禅で泊まり込みがありました。

朝は早くから起きてお掃除をします。天竜寺の庭というのが国宝らしいのですが、かじかむ手で庭のお掃除をしているときに、廊下に衝立のような台が置いてありました。 それに書いてあったのが「登竜門」というものでした。

何かの登竜門とかいうのが、よくありますよね?その程度しか分からなかったんですけど、今は文章も中身も覚えてないんですけど、結局どういうことが書いてあったかというと、要するに、人間はどうしても超えられないような壁につき当たる事がある。

その時超えようとして努力するのだけどなかなかうまくいかない。ところがその壁を何かの拍子にぽんと乗り越えたら、そうするとそこからまた一気に登り出す。そういう壁のような所のことを「登竜門」という……というようなことが書いてありました。

何かそれでほっとしたというか、自分が今まで悩んで苦しんでいたことが、「あ、そうか、これは『登竜門』やな。これを言うんやな」と思いまして、何か本当に思わずぽん、と膝を打ちたくなるような気になり、決断しました。

その時に結局、具体的に何を悩んでいてどのようにしたのか今ははっきりとは覚えてないのですが、多分その頃にそういうことがあったと思います。

また、私は行きていく中で、英語として間違っているかもしれませんが、パーソナルコミュニケーションという言葉が好きなんです。

知りあいで読書好きの方がたくさん読んだ本の中から「氏田君、これは君に合うよ。これを読んだらどう?」と言われた本を読む。そうすると私はたくさんを読むのではなく、その方がお読みになったものの中から私にすすめてくださってそれだけを読む。 もしくは、誰かがすごく勉強されて、例えば本を読んで研究されたことを咀嚼して私に教えてくださる。

私はそれを素直に受け止める。ですから自分自身は当然、学校の勉強も苦手でしたし今でもちっとも勉強はしませんけれども、そういう素晴らしい友人がいるおかげで、数少ないチャンスを生かしていけているような、そんな気がします。

今日は間違ったことを偉そうに言うかもしれませんけれど、とりあえず聞いていただいて、また、良ければいろいろとご意見も頂戴したいと思います。

 

 



●<第3回:阪南高校


私は1969年、昭和44年に、大阪府立の阪南高校という学校を卒業しました。

非常に自由な学校でして、入学当時からみんなが先生にいろんなことを言ったり、いろんな意見を述べられる、レベルが高いというよりも自由な学校だったと思います。

私は入ったときは成績が良かったらしいんですが、どんどんどんどん学業が落ちていきまして、欠点すれすればかりでした。それで1年生の時から先生によく叱られてました。

何せ1学期の終わりぐらいでもう赤い数字(欠点)がいっぱい並ぶんです。別に中学で一生懸命勉強したわけではなかったんですがそれ以上に勉強しませんでした。

高校に入ってから、伝書鳩を50羽ほど飼っていたので、そちらの鳩レースのほうに一生懸命になっていました。この伝書鳩の話だけでも1時間はかかりますので、又次の機会にしたいと思います。

だから「最初は成績の良かった人間がなんで1学期でこんな悪くなるねん?」とかいろいろ言われました。それでもその時に素直に受け入れられなかったんですね。

私はヘソ曲がりだったのか、「高校で勉強するのなんか無駄な時間と違いますか?」と先生に言ってました。

先生も「なんでそんなん無駄やねん?」と言うので、「やっぱり若いうちから集中的にやらなあかんことがたくさん有るはずやから、時間がもったいない。 学校の勉強みたいなのはあんまり役に立ちませんよ」とか言いかえしてました。

何か今から思ったら顔が「真っ赤」になるのですが、真剣に先生にそういうことを言いましたね。 「どうしようもない奴っちゃなー」と思われてたようです。

書道の授業の時、私が字を書いていましたら、先生が「真面目に書け」と言い出すんです。「僕は真面目に書いているし、これは素晴らしい字ですわ。もう芸術ですよ」とか言い返すわけです。先生が「こんなん芸術やない」と言うから、「先生、それはどこに問題があるんですか?一体美しさとかいうのは人間の感覚の問題やから、錯覚やないですか」と言ってしまいました。「君、それが分かってるんのやったらちゃんとレポートにでもして出しなさいなさい!」とか言われました。

それで『錯覚論』というのを書きました。高校生の時にですよ。今は残ってないですけれど、何せ「美の錯覚」とか「愛の錯覚」、「人生は錯覚」とか、そういうことを自分なりに書いていって、先生に出しました。

幸田先生だったか、書道の先生だったと思うんですが、それですごく良い成績をくださいました。私だけはあまり一生懸命授業受けないで良いという。何か、おかしな話ですけど、、、。

そんな阪南高校ではこんな事もありました。 当時大学では「全学連」や「全共闘」など学生運動が盛んでした。 ちょうど東京大学で安田講堂が封鎖され、入試のなかった年です。

実は私たちの阪南高校では卒業式当日、一部学生により学校にバリケードが張られ封鎖されました。 全国初の高校の卒業式封鎖でした。 もちろん、私は外から体育会系の連中と飛び込んでいって封鎖を解除する側でした。 天下、国家人生を諭じる。 そんな高校時代でした。

そんな高校生活の時、父親が亡くなりました。昭和43年8月10日、高校3年の夏休みでした。私の父親が今の、有限会社氏田自動車工作所という会社を昭和20年に創業して、昭和25年8月に法人登記しました。ちょうど私の生まれた年です。 そして18歳の時に死んでしまいました。

正直言って、その時はあんまり悲しくなかった。何故か分かりませんが、そんなに悲しくもないし、どうということもなかった気がするんです。 ただ、お葬式の時になって、棺を出す時になんか本当に泣き出しただけ、というのを覚えているのですが、すごく複雑な心境でした。

ところが、仕事をするようになって、父親の値打ちがわかるんですね。仕事や人生で悩んだりしだすと、結構「オヤジ」が何かしら私を助けてくれるんです。寝ていても、夢で出て来てくれたりして、突然大声で泣き出すほどの事になってきたりしてました。


 



●<第4回:私の家庭


私の家庭は非常に複雑でして、父親も母親も再婚です。そして父親のほうの子どもが2人、母親のほうの子どもが2人。結婚して私ができた5人兄弟、ということなんです。

もう両親もいないからこんなふうに言えるのですが、小さい頃は家の中ではタブーというか、みんな分かっているんだけどお互いに言わない、家族の複雑さで、私を含めて5人の兄弟に母親がすごく気を使っていました。

だから、子供心に何か、すごく気を使いながら、兄弟の話や、家が将来どういうふうに継がれていくのか、というような話は家族の中では絶対に出ませんでした。

そして友達同士でそういう話が出てもしゃべれないというか、自分でもものすごくその話題には触れたくない、というような、辛い場面がよくありました。

父が死んで、2番目の兄が会社の跡を継ぐことになるわけですが、私にとってはまったく関心のない話なんです。実際、小学校の時から心臓が悪くて……心臓が強いのと悪いのとは違いますので(笑)、心臓の弁が欠けているんですよ。 それで、心臓から血を送っても戻ってくるという、弁膜症みたいなものです。

だから激しい運動は一切できない。それは小学校4年生ぐらいの時に学校の健康診断で分かりました。 診断してた先生が突然「あ、これはえらいこっちゃ」と言いました。聞いてて、「これはえらいことなんや。俺はどうなんのかな?、死ぬん違うかな?」と思いまして、それでもう1度精密検査されました。

その後、階段を上がって教室に戻る時に、もう、「ほんまにもうアカンな…」と思ったのを今も覚えてます。何かありますよね?ドキッとするようなもの…それで精密検査だとかいろんなことをして、とりあえず運動は一切禁止。体育は見学だけ、そんな小学生でした。

中学生ぐらいになって体もちょっとはマシになって、生活も普通に出来るようになってきました。でもそういう時期がありましたから、両親も私には期待していなかったと思います。

多分死んだ父もまさか私がこの仕事をやっているとは夢にも思っていないのではないか、と思うんです。

体の事も有って私は学校を出たらどこかへ勤めようと思っていましたから、誰が継ぐとか、そういうことをあまり気にしてませんでした。

それで当然、兄が会社を継いで仕事をし始めます。たまに実家に来るんですけど、なかなか思わしくないという感じは高校生の私にも分かりました。

明治40年生まれの父親は非常に仕事が好きな人で60歳まで、自分で創業してワンマンでずっとやってきてました。自動車の修理が本業なんですけど、運送屋さんを別に経営したり、加古川のほうにガソリンスタンドを作ったり、仕入れている部品屋さんが危なくなったらそこの会社に応援に行って、会社の代表権を持ったりと、たくさん仕事をしていました。

そのような会社の2代目の社長に、私の兄がなるわけですが、非常に気の毒だったと思います。それだけのものを一度に引き継いで、その前に建てたもので南住吉にあった工場の多額の返済分もありました。

ワンマンの社長である父のうしろでずっと仕事をしてましたから、とにかく大変だったと思います。 その兄がやる、ということになりまして、私はそのまま学校を出るということになりました。


 



●<第5回:苦学生??


そして高校を出てどうするか、という時に、私は関西大学の社会学部の2部に入学しました。
いわゆる大学の夜間です。

いつも思ってるんですが、物事の見方というのはすごく面白いです。どっちから話をもっていくかということなんです。

例えば高校生の時に父親が死んだ。学校へ行きたかったけれどいろんな関係上、夜学にしか行けなかった。夜学に行きながら家業を継いで―― (実はその後うちの会社はすごいことになってしまうんですが、、、)―― そしてやがて、会社も駄目になってしまう。ところが、没落したその会社をその後、何とか建て直す。

とまあ、こんな感じになると、1つの「売り」になるとは思うんですけどね。実際は全然違いまして、昼間の大学に行くほどの学力はなかった。たまたま、「友達はみんな大学行くし、だから俺も行かなあかんねん。どっかちょっとした就職も難しいし、だから夜間でも受けよか?」ということでした。

夜間は皆さんもご存知のように試験は簡単でしょ?私は立命館大学の2部と関西大学の2部とに通って、近いからと言う理由で関大の2部に行くことになったんです。ところが、夜学に行くのに6時頃に学校に入ろうと思ったら、「きちっと」時間どうり仕事の終われる、そんな会社に勤めないと間に合いません。だから公務員の方が多いんでしょうね。

しかし、それはちょっと無理だし、4月に入学してから遅れて5月ぐらいに、自分の会社に入れてもらいました。兄が社長で、私が入社した、というわけです。それは要するに夜学に行く間のつなぎで入ったわけで、自動車なんてあまり好きじゃなかったんです。ただそういうことで入社しただけなんです。

入って一番に、会社の中がガタガタになっているのに驚きました。以前の会社は先代のワンマン社長の父親がいて、そこに私の兄がいて、他に職人さんが3人いた。そして事務には古くからのおじさんがいた。

それで一番上の社長が急に死んでしまったから、兄が上に上がろうと思っても実質的には上がれないんです。1代目から2代目につなぐ時に難しいというのはそれだと思うのですが、トップが居なくなると会社がもうみんなバラバラになるんですよ。

私が入って行ったら1番の人気者でね、兄にとっては弟ですから、いろいろ言ってくれるし、職人さんもみんな「下」が入ってきたと思って私にいろいろ技術を教えてくれる。

経理のおじさんはおじさんで、「耕ちゃん、事務を教えてやるからやったらどうや?」と言ってみんなが私を引っ張りだこにしてくれました。

それでこんな性格ですから「ま、ええかなあ」と思って、職人さんや皆さんを相手にしました。
 1人、喫茶店に連れて行くのを喜ぶ人がいて、連れて行ったら、と言っても私が連れて行かれるんで、お金も向こうが払うんです。とりあえずしゃべりたい、整備の技術をいろいろ教えてくれるわけです。

「この構造はこうなんだ。ミッションはこうや」と言って、喫茶店のナプキンを出してそこへ書いて教える。教え魔なんですよ。「ふーん、なるほど、自動車て面白いですね」と言うと、「ほな今日仕事終わったらまたお茶飲みに行こう」と、引っ張られる。

兄は兄で人を使うのが嫌だから私に何かと指示するんですね。1番強烈だったのが、「手形の書き換えに行って来い」というものです。全然何も分からない私に言うんですよ。会社の印鑑と兄の実印を私に持たせて、書き換えに行くんです。

今でも覚えてます、大国町にありました尼崎ナニワ信用金庫…今は名前が変わりましたね?…そこに行くんです。手形や書き換えの意味さえわかってませんでした。 

金額は覚えてないので何百万としましょうか、その何百万かのお金を1カ月後に払います、という手形がありまして、その期日が来ているわけです。何も分からないでそこに行ったら、向こうがすごく怒っているわけです。

それで「すんません」と言ったら「なんや?元金を少しも返済しとらへん」と言われます。その上、本当は書き換えに行かなきゃならない日にも行ってなくて、遅れて私が突然行かされてるわけです。「もっときちっと期日に来なあかんやん。元金の返済はどないなってんねん?」とか言われても、18歳で何も分かりませんから、ただ謝るだけです。

それでゴム印を捺して、兄のサインを私がして、兄の実印と会社の実印を捺して、利息だけを払ってくる、ってやってました。

 



●<第6回:社会人1年生


それに経理のおじさんはおじさんで、簿記を教えてくれるんです。

振替伝票の書き方とか現金出納帳とか、いろいろ教えてくれるんですけど、私はそういうのはあまり得意ではないんです。

後で考えて分かったことは、要するに会社は父親が死んだ後で借金もあるし、資金繰りがうまくいかないから、金が詰まってくるんですよ。それで私にそれを担当させて、金が詰まってきたのをどっかから引っ張りに行かせる。要するに母親とか、どこか知り合いに金を借りに行かせるということだったようです。

社長の兄はもう事務まかせで、事務の人が私にそれを言う。だんだんやっているうちに、「大変や。どっかから金を借りなあかん。お母ちゃん、会社は金が足らんらしいわ」というと「そんなん私、ないで?」と言うことになります。

「俺どないしたらええんかな?銀行でお金借りなあかんのかな?」と、もう全然分からない状態でした。

私は普通科の高校卒ですから経理は苦手でした。第一、一番悪いのはそろばんができないですよ。小学校の時にそろばんを習ったんですが、なにしろ手が大きい、指が太いで1つ上げるのに2つ上がっちゃう。10上げたつもりが110上がってたりね。そろばんをおく度に数字が違うんです。

そろばんができないと経理ができませんから、困ってました。今みたいに小さな電卓もない時代です。それで日本橋にあった中古品専門の五階百貨店へ中古のレジスターを買いに行きました。大きいのしかないのですが、当時きちっと数字が出るというとレジスターなんです。コンセント差し込んで叩いてね、がちゃがちゃと計算が出来る。

昭和44〜45年ぐらいですから、普通事務をやる人はみんなそろばんをパチパチと置いて数字を出すのをそろばんができないからレジスターで計算してました。それでいつも車にレジスターを積んで移動するんです。請求書や見積書を作るにもレジスター打って、出てきた数字を書いていました。近代的なのか非近代的なのか分かりませんが、今は電卓ができたおかげですごく助かっています。 

その時の思い出で1番面白いのが、「小切手事件」です。日本橋の角にある三和銀行の恵比須支店とも取引してまして、そこからもお金を借りていたんです。それでそこに行って、小切手を書かなきゃいけない事になりました。向こうが「ここに金額を記入してください」と言いました。全然知識の無い私が小切手を書くわけです。 普通は簿記を勉強してるか、事務を習ってないとわかりません。

小切手に金額を書く欄があってね、そこへ数字を書けって言われるんです。

例えば135,670円だったら、そこへまず「¥」って書いて算用数字で「135,670ー」って書いたら良いと思うんです。 ところが、銀行の人が「小切手にこんな書き方はないでしょ。 漢字で書きなさい」と言うんです。

漢字で書くって言われたんで、2枚目の小切手にまず、「金」って書く。 「¥」じゃないんです。そして、135,670円だから、一三(ジュウサン)万(まん)、五千、、、「金一三万五千六百七十円也」です、最後に也を付けるは何故か知ってました。 そしたら向こうの銀行員が今度はめちゃくちゃ怒りましてね、「これはだめでしょう!」ですわ。「何でですねん!」すると、「もうええわ!」ですよ。

3枚目の小切手帳を持って行って、後ろで「ガチャ」ってチェックライターで打って来て判を押させるんです。 「それやったら、最初から打て!」と思いましたね。 この小切手帳ね、紙代を取るんですよ。 それも、きっちり3枚分ね。
銀行というとお金を貸しちゃうと、、…銀行の人はいらっしゃいませんよね?(笑)すごくえらそうなんですよ。本当に腹が立つぐらい。

 それで家に帰って母に「今日銀行行ってこんなん言われた」と言ったんです。うちの母は尋常小学校しか出ていませんけど、「何にも知らんとよくそんなんやったなー」と言って、広告の裏の白いところに、「壱」とこう書いてくれまして、「この下に書け」と言うわけです。それで漢数字を書いて、練習して、、、、、。母親に習いました。あの時に、「あ、そうか、小切手とか手形に手で書く時はこういうふうな字を使うんやな」というのが初めて分かりました。

今でも母親に習った、その時のことが絶対忘れられへんのは、大正2年生まれの母親は尋常小学校しか出てないんです。 その学校へ行って無い人に習った事なんです。 私は今でも小切手帳をはずして持っていって、どこでも数字を書いて、小切手を作れます。 それを書くたんびに、「ああ、おふくろに習ったなあ」って思い出すんです。 

そんな事も18歳だったからできたと思うんですけどね、だけどそういう事って世の中にいっぱいあるじゃないですか?

 そして、メカニックのほうの先輩は「整備士を早よ取れ」というので、勤務期間をごまかしてもらって受けに行って、すぐに3級整備士の免許を取りました。

その頃は色んなことがいっぱいありました。そんないろんなことがいっぺんに経験できましたからやっぱり早く社会に出て良かった、と思いました。例えば自動車の修理という特殊な技術というか、自分が将来食べていけるだけの事を身につける。

銀行に行ってそういう数字の事を教えてもらったり、経理というか簿記というか、振替伝票とか複式とか、バランスシートを作るところまでは今でもできます。おかげさまですよね、簿記なんて正式に習ったことはないんですから。

でも、ただ何でもできるだけでは駄目で、今度はそれを読める、予測できないと経営者にはなれない、ということなんですね。

会社は予想通り2年ぐらいで資金ショートしてきました。社長の兄は答を出しませんので、「どないすんねん?」というので、高利貸しにお金を借りに行ったことがあります。

亡くなった父親の知り合いで高利貸しを副業でしている人に資金繰りのためにお金を借りに行ったことがあるんです。その時には母親も連れて来いと言われまして、兄と母親を連れて行きました。兄が社長ですから兄が書いて、うちの母親が保証して、それでお金を借りました。

高利貸しって、あれはすごいですよね?金利がメチャクチャ高いし、おまけに先に金利を取られるんです。お金を借りる時は先に金利を引かれた分しか貸してもらえないです。銀行というのは普通は預けた時は元金に金利が後から付いて返ってくるんです。でも聞いたら銀行も貸すときはそういう仕組みだということで、高利貸しだけではないということが分かってきました。

 

 



●<第7回:縮小する勇気


そういう色々な事がありました。 兄も音を上げるし、その当時、今のウジタオートサロン住吉店の1つ南の筋を東に入った角にうちの工場が有りました。

100坪ほどありまして、それをとりあえず40坪売って金利の負担を軽くしようということになりました。 その40坪はすぐに売れたのですがそれでもなかなか追いつきません。 そこであとの60坪も売りに出す事になりました。 その時には「もうあかん。このまま行ったらせっかく親父が、『お前らにお金はよう残さんけど、他人様に後ろ指だけは指されんようにしといたる』と言ってくれてたのがそれすら危なくなる」というので、とりあえず、会社を閉鎖しました。

商売の買掛金も何もかも棚上げしてもらって、土地が売れたら全部返します、という約束でとにかく、そこを閉めました。 しかし、今度の60坪ははなかなか売れませんでした。 よく分かったのが、やっぱり店を閉めたらすごいですね。 取引先の人達の対応の変化というか取り立てというかね。 今まで「はあ、はあ」何て言っていた人が、「お前ええかげんにせんかい。そんなだからあかんねん」とか言われましたね。

もっとも待って貰ってるこちらが悪いんです。「なんで俺がそんなこと言われなあかんねん。俺は社長と違う」と言ってけんかをしたことがありました。 20才ぐらいの時ですかね? ちょうどその頃に私は十二指腸潰瘍を患ったんですよ。 今はこんな気楽に言ってますが、当時は1つ1つがものすごく真剣な話で、苦しかったです。 いろいろ悩んで、本当にお腹が痛くて調子悪くて駄目でした。 

それで阪南町にある小川医院というところに行きまして、当時は毎日1本ずつ注射をするんですね。 それで20本打ったら、バリウムを飲んでレントゲンを撮るんです。 それでまだ治ってないというと、また毎日20本まで注射をして、バリウムを飲んでレントゲンを撮るんです。 結局60本うちました。そしてなんとか潰瘍が治まりました。 その時は毎日、お粥さんに白身の魚、そして外出時は熱いお茶の入った魔法瓶を持ち歩いてました。

皆、母親の世話になってました。また仕事しながら時間を見つけて、ずっと病院へ車で通いました。悪いときには悪いことが重なるもので、その小川医院に行く途中に、信号を曲がった所で、信号待ちの車の間から小学生が飛び出してきて跳ね飛ばしてしまいました。 小学生の女の子が1ヶ月も入院するほどの事故でした。 その時に初めて分かったことなんですが、うちの会社は保険の代理店をしていなかったんです。 

手続きがめんどうだったのか、保険専門の保険屋さんへの紹介でしてました。だからと言うんじゃないんですが、いざ事故を起こしても、その代理店の保険屋さんも保険会社も何もしてくれませんでした。自分で保険会社に行ったり、事故の解決とかやったりして大変でした。 20才ぐらいの時でしたが、その当時は保険もまだまだ不親切な頃で何でも当事者や代理店がしないといけなかったんです.

事故を起こして、女の子の入院してる病院や家に謝りに行った事。 病院と支払いの交渉したり、示談するまで1年以上かかりましたね。 頼れる父親もいなくなってましたし、「そら、体も悪ぅなるなあ」と自分で思いました。 自分のもらった給料明細も全部持って、「もうこんだけしかお金がない。うちは親父も死んで会社もあかんから、もうこれで勘弁してください」と言って、最後に示談書を書いてもらったことがあるのです。

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株式会社 ウジタオートサロン
〒545-0037  大阪市阿倍野区帝塚山1−12−8
  帝塚山店  TEL:06−6654−0700  
   住吉店    TEL:06−6606−0700  
   豊中店    TEL:06−6852−0700  

 有限会社 氏田自動車工作所
   〒558-0054  大阪市住吉区帝塚山東1−5−17
  本社工場  TEL:06−6673−0700  

古物許可番号621220802855
大阪府公安委員会の許可会社名 :(有)氏田自動車工作所
古物許可番号621220101947
大阪府公安委員会の許可会社名 :螢Ε献織ートサロン


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